中国紀行1・・香港〜広州〜桂林〜西安

この紀行は1988年7月に始まる、ネパールのトレッキング紀行を終え、日本で装備の変更をして旅立った。目的はタクラマカンの広さをこの目で見てみたい・・ネパールで高さ、中国で広さを感じたかったからだ。

 もう既に暑くなっていた香港に降り立ったのは、7月の11日、日本に戻って1ヶ月程しか経っていなかった。
大韓航空の安いチケット(1年オープンのチケットで往復US350$ほど、日本円で3万8千円くらい)をカトマンズで手に入れ、香港〜ソウル〜大阪を往復した。久しぶりに戻ってきた香港は前にも増して蒸し暑く、前に泊まったチュンキンマンションの安宿に今回も世話になった。あの香辛料ともなんともいえない匂いで僕はアジアに来た事を改めて感じた。
 すぐに中国ビザの申請に向かったのだが、この頃はまだ、領事館に行けば取れる事を知らずに、エージェントに代行申請を頼んだ。2日後が受け取りの期日。ビルから、外に出てみると、まぶしいくらいの陽射し。暑くなるな・・・、しかし心は軽かった。香港を総て知ったわけでないのに、自分の庭のように歩ける楽しさ。「ウェルカム」でビールやつまみ類を買っては、堤防に座って人を眺めながら喉を潤していた。
 香港っていう国は、宝箱をひっくり返したような面白さがある、異邦人な自分も異邦人にならずに溶け込んで行ける不思議な国なんだ。また、絵葉書を買って、手紙を書いたり、電話局へ行って、国際電話を掛けたりした、地下鉄やバスにも乗ってあちこち行ってみた。あてどなくバスの終点まで乗って、そこから次のバスの終点まで乗って、一度迷子になったことがある。3つ目くらいから分からなくなって帰れなくなった、地元の人に聞いて、違うルートで戻ってきたが、1回の乗換えで帰れる処だった。香
港の滞在も生活になり掛けた頃にビザをもらえた。3ヶ月の1次入境査証(シングル・ビザ)が僕のパスポートに押されていた、このビザが欲しかったのだ。どのルートで入ろうかと考えて、地下鉄とKCR(九龍広東鉄道)でボーダー(国境)まで行き、そこから歩いて国境を越えようと思った。
 朝が待ち遠しかった、ザックを担いで宿を出てると、外は既に人でいっぱいだった。雑踏の中を駅に向かう。地下鉄で途中の
九龍糖(クーロントン)まで行き、KCRに乗り換える。ボーダーのローフーに行く列車はさすが中国人ばかり・・・(これから、中国を旅しようとしているのに、最初からびびっていた)その車内で、香港人のツーリストと知り合いになった。彼はこの後、シルクロードに行き、ソビエトに行くと言う。中国のことを少し教えてもらう。「ボーダーでは、煙草を買いなさい、中国に抜けたら、高く売れるから」とお金の儲け方まで教えてくれた。その当時、香港ドルと中国元は100:80くらいの交換レートだったが、煙草を買って変えると100:100で換えられた。香港ドルをたくさん持っていても仕方が無いので、煙草を2カートン買って、ボーダーでしっかり売りさばいた。ボーダーを越えた後も彼が、色々と気に掛けてくれ、「広州まで一緒に行こう」とまで言ってくれた。広州行きの切符も一緒に取ってくれ、時間まで昼ご飯を食べながら、彼の話を聞いていた。
 香港から中国に入ると景色は一変し、列車は田んぼの中を進んでいく。広々とした田園風景なのだが、田んぼに入る水が茶色く濁っていたのが気になった。辿りついた広州は人の山・・・さすが中国、人ばっかり。彼がシルクロード・ウルムチまでのチケットを取るまで、待っていて、お礼を言って別れた。
 彼は、駅の近くのホテルに泊まればいいと教えてくれたが、僕は南の沙面にある勝利賓館に行きたかった。この旅のいくつかのホテルに手紙を送ってもらうようにしていたから。最初のホテルがここ広州の勝利賓館だった。まだ、分けもわからず、バスのルートも知らないので取りあえず地球の歩き方の地図を頼りに歩いていくことにした。歩けない距離じゃないと思ったし、歩く事によって、町の感覚が分かると思った。
 ヘトヘトになりながら、沙面に着き、勝利賓館でまずは部屋を聞いてみたが、高いシングル(80元)しかなく、安い宿を教えてもらうと、「
近くにユースがあるからそこに行きなさい」とのお言葉。手紙が来てないかと聞いてみると、「来ていたが居なかったので、送り返した」との返事・・・そんな〜〜最初から躓いた(この後、ホテルでの手紙の受け取りはことごとく失敗に終わり、最期のチベット・ラサのホテルで数通受け取っただけだった)重い体を引きずり辿り着いた広州のユースには日本人がいっぱいいた。僕がまず、教えてもらったのはブラックマーケット(闇両替)のレート。この頃、まだ闇両替が盛んでけっこう得が出来た。

<ブラックマーケット・闇両替>
 外貨兌換券(ワイフィ)を人民元(レンピー)に替えてくれる。地域によってレートは様々(120〜200元)
この闇両替は、必ずと言って良いほど騙しの洗礼に合う。
ほんと中国人の騙しのテクニックには感心するくらい。最初にレートを決めるのだが、渡してくるお金は必ず10〜20元少ない。そこで"少ない”と言うとそのお金を取り戻し足らない分を足す振りをして10〜50元くらい抜かれる。そのテクニックはすごい。僕は、用心深くしていたので、洗礼には合わなかったが、友達は100元以上抜かれて、大損した事もあった

広州はレート180元との情報。その頃ワイフィの交換率が1元:35円(日本円)くらい。180で替えれば1元の価値が20円くらいになる。物価は1食3〜4元、宿が10〜20元、1日に30〜40元(600円〜800円)使っても1万円でかなり使えた。
 道路に出ると早速チェンマネの声が掛かる。レートはすんなり「180」、しかし、何度も金を抜くので時間が掛かったが、どうにかレンピーを手に入れた。
 ユースには、中国を旅したつわもの達がたくさんいて、色々と教えてくれた。「二度と中国には来ない」という人が半数近くいたのには驚いた。中国って旅がし辛い処だとは聞いているが、それほどまでに嫌いになってしまうものなのだろうか?。ここから何処に行こうか・・・考えていた、フェリーで海南島に行こうとしたが、欠航続きで、チケットが取れなかった。列車のチケットは駅を見た瞬間呆然とした。
 このユースで東京外大の学生2人(2人の妹達)と知り合いになり、一緒に旅をする事にした。それでも広州を出たのは、中国に入って1週間くらいたった後だった。出る切符が何処も取れなかったという理由。中国では、「1日1事」と言われる。切符を買う事が一苦労なのだ。結局、鉄道で出ることは諦め、船で”山紫水明の都-桂林”を目指す事にした。船で川を遡り、川上の町・悟州(ウーチョウ)まで行き、そこから桂林行きのバスで、陸路向かうのだ。
 船は二等だか、三等だかの4人部屋だった。昼過ぎに乗り込んで、翌朝には着くらしい。待合室は、中国人の荷物で足の踏み場もないくらいになっていた。僕らは、スイカを一つ調達し、それを小脇に抱えて船に乗り込んだ。船は、川面をゆっくりと上っていく、揺れもなく風も気持ち良かった。夕飯を食べて、デッキに出ると、そこは夕焼けがパノラマに広がっていた。「始まったんだな・・中国の旅が」と一人物思いにふけていると、闇がカーテンを引くように徐々に夜の帳が下りていった。船から見る景色は綺麗だった。
 その後、船室でのんびり話をしながら寛いでいて、寝ようとトイレに立った妹達が戻ってこない。僕もトイレに行くと、二人とも外で星に見とれていた。周りに光も何もない川の上は星を見るのに絶好の場所。それこそ落ちてきそうなくらいの星の数に3人でしばし見入った。朝になっても船は一向に着く気配がしない。予定はあくまでも予定らしい。しかし、この後もあるのだが、時間の感覚が僕らとは違っている。定刻はあってないようなもの。どんどん時間は変わっていく。その頃の中国を旅するのに「忍耐なくては旅は出来ない」というほどある意味大変だった。朝飯に売店でパンでも買おうかと思ったら、いきなり没有(メイヨー)と言い放たれた。中国語で、最初に覚えた単語は”メイヨー(没有)”だったし、中国を象徴していた。

<メイヨー(没有)について>
 何回この言葉を耳にしたことか。意味は、“ない”。たとえば、宿で部屋があるかと聞く、即答で”メイヨー”本当にない時もあると思うが、仕事をしたくないばかりに”メイヨー”という人もいる。列車の切符も一度で取れればラッキー、何度も”メイヨー”と言われ、あれこれ列車を替えてどうにか切符が買える、それが普通だった。一度、百貨店で店員を怒らせてしまった事があり、物はそこに見えているのに、”メイヨー”と言ったきり売ってもらえなかった事がある。物は“買わせてもらう”、宿は“泊まらせてもらう”ぐらいの気持ちがないと、中国の旅はきついものになってしまう。

 やっと、船が着く。乗客は蜘蛛の子を散らすように町の中に消えていった。僕らは最後に降り、桂林行きのバスを探した。遥か階段を上がった上にオフィスがあり、キップを買った。「何故下にないの?」と聞いたら、「水位が上がるので、ここじゃないと流される」と言っていた。すごい水位の違い、スケールがやっぱり違うや・・
 バスの出発時間まで、食べ損ねた朝飯を食いに街の食堂に入った。「米飯と炒青菜・鶏蛋湯」とオーダーしたが、待ってる間にトイレに行きたくなり、初めて中国の公衆トイレを使った。伝え聞いていたすごいトイレではなかったが、やはり大陸なのだ・・と妙に感心した。飯を綺麗に食べてしまい、店の人には申し訳なかった(中国では、残すのがマナーだが、どうしても綺麗に食べてしまう、「綺麗に食べる日本人」と僕らは言っていた)
 桂林行きのバスは、お世辞にもいいバスとは言いがたく、いつになったら着くんだろうか?と疑問になるほどのろのろと走り始めた。バスの中の旅行者は僕ら4人だけ、後は中国人ばっかり。一人の妹が隣に座っている、「彼女達とは、何処まで一緒に旅をするのかな?」と思いながら、外の景色を目に映していた。暑い・・・エアコンなどあるはず無く窓は全開、そのため砂埃も容赦なく僕等に降り掛かってくる。途中で道路が悪く、全員降ろされて歩かされる羽目に・・。
 朝に乗って、昼を過ぎ、夕方になっても着く気配無く、一体いつ着くのか??心配を通り越して、「明日には着くかな?」と半分投げやりになっていた。
 腹も減ったし、喉も渇いた。「宿に着いたら、ビール飲もうな」と堅い約束をして、待っていたのだが。陽朔(ヤンショ)に宿を取ろうと思っていた。夕方、陽朔らしき街に着いたが、まだ先だと冷たい返事。そこからまだ4時間掛かって夜の10時に陽朔着。街の様子も何もあったものじゃない。広州で知り合いになった日本人に教えてもらった群峰旅社に行くと丁度4人部屋が空いていた。すぐチェックインして近くの食堂を教えてもらった。夜の10時過ぎに店を探して歩いていると、1軒の食堂が開いていた。しかも、まだ食事出来るとのこと。ビールと食事を頼んで、美味しく夕飯(もうとっくに夜食の時間だけど)を食べ、飲んだ。12時まで店にいて、閉店するというので、ビールを2本持ち出しにして宿に戻った。体は疲れているのに、精神的にハイになっていて寝付かれない。持ち出したビールを飲みながら、夜遅くまで話していた。
 翌日は、ボーとした頭で起き出し、陽朔の街を散歩した。やっぱり、暑い・・漓江に行くと、水に入れる。ビーチサンダルだったので、そのまま川の中へ。ひんやりして気持ちがいい。彼女達はサンダルを持っていないらしく、市場に買いに出掛けた。その間、岸に腰掛け漓江の景色を見ていたのだが、ここにも奇岩怪石の山があるんだけど、晴天の燦々と陽が射す中じゃただの山にしか見えなかった。よく桂林の風景で紹介されるカットは、ちょっと濡れている景色か、陽が落ちるときの赤の景色か・・そういう場面を想像していたので、現実は「・・・・」という感じでした。
 会話に使われるのは、ヤッパリ中国語。中国語を身につけるのは大変だが、次第に覚えてしまう、だって中国語しか通じない処がほとんどだった。

<中国語について>
 大陸・中国を旅することは、中国語を覚えなさいと言うくらい絶対必要だった。でも、四声と呼ばれる声調があり、その他にもまだ声調があった。同じ音で4つの意味があるのだから、声調を間違うと違う意味になる。しかし、地域によって方言や訛りがあって、中国語を勉強している妹達でも?マークが着く言葉があった。ただ、音はそんなに多くないので、辞書を買って一生懸命覚えた。少し経つと、いんちき中国語を喋るようになったが、旅を続けている間、最後まで辞書とは友達だった。

 言葉で、欧米人は苦労していた。漢字の意味や音は見慣れないし、耳慣れない。欧米人の書いた「北京」という漢字を理解するのに時間が掛かったくらい、字ではなく、「絵」だった。色々な交渉や話も、僕らには、まだ筆談という手段もあったし、漢字の意味が多少理解できたが、欧米人はお手上げ状態の人が多かった。切符を買う時やホテルは、絶対に「外国人料金」を請求されて、彼達は泣く泣く払っていた。

<外国人料金について>
 その頃、中国人民と外国人では、料金の違うものがたくさんあった。列車・飛行機・バスなどの切符(1.5〜3倍)、宿泊料金(2倍〜)、観光地の入場料(5倍〜)などなど。旅行者は出来るだけ安くしようと、中国人化する、日本人は中国語を話すようになれば人民料金で買えるようになるが、欧米人は、同化できず、高い切符などを買っていた。

 ここは連日暑くて、毎日ビールを飲んでいた。中国のビールは安いし(1本2〜3元)、地ビールがたくさんある(美味しいのもあれば、不味いのもある)初めて、文として話した中国語が”ハイ要一瓶碑酒”(ビールをもう1本ください)だったくらいよく飲んだ。陽朔は僕には丁度いいくらいの大きさで、桂林を観光して戻ってきてからもよく歩いた。食事は、いつも同じ食堂で食べていたので、すっかり仲良くなり、店の人達と友達みたいになっていった。その中の一人の青年の店員の人に、こう言われた「あなたがもし中国語を話せるか、僕が日本語を話せたら、色々な事を一緒に話したい」・・僕は、自分の語学力のなさに悔しい思いをした。少しでも話せたら、意思疎通が出来るのに、その可能性を僕は駄目にした。
 桂林の観光はローカルなバスで行った。片道2時間弱くらいの、のんびりした旅だった、桂林の街中を観光しようと歩いていると、レンタサイクルの看板が目に入った。借りようかと聞いてみるとパスポートのデポか幾らかのお金を保証金として置いておかなくてはならなかった。パスポートは持っていたが、分けのわからない所にデポするのは心配だったし、お金はほとんど持っていなかった。
 「歩いて廻ろうか・・」とテクテク歩き始める。街中には幾つか観光する所もあり、中国人と混じって観光した。ここから出る切符も取らなくてはいけなく、CITS(中国国際旅行社)のオフィスに行くが、カウンターには人がいず、戻ってきたら「列車の切符は取れない、向こうのCTS(中国旅行社)で頼みなさい」とつれない返事。CTSで桂林→西安の硬臥(二等寝台)の切符を頼んだら、係員はパスポートとお金を持って走って切符を取ってきてくれた。
 桂林の観光のハイライトは「漓江下り」で、桂林から陽朔まで船で下るのだが、外国人料金が設定されめちゃくちゃ高いので、僕らには手が出なかった。
 幸い聞いてみると、陽朔から桂林まで「漓江上り」する船があるとの事。中国人が普通に使う船で、それに便乗させてもらうことにした。もちろん外国人は僕らだけだった。朝、緩やかに陽朔を出発。川の流れに逆らいながら船は遡っていく。
 のどかな船旅でデッキに腰を下ろして足を川に着けていたら怒られた、足が抵抗になって、スピードが出ないと言うのだ。昼飯を食べてからものんびり過ごしていた、途中に寄った処でスイカを買って食べたり、川で遊ぶ子供達を眺めたり。桂林の出発は午後9時41分、充分間に合うと思っていたが、既に夕方になっても桂林市内に入った形跡はない。それから、慌てた・・やっと船が桂林に着いたのは出発の1時間ほど前、荷物を担いで走る、走る。途中でタクシーの乗ったが、それでも乗り遅れそうになり、ヒヤヒヤした。もう、改札が始まりそうな時間になっていた。僕らが買った急行列車の切符は桂林から西安まで36時間くらいかかり、車中2泊の旅である。乗り込んだその晩は疲れもありすぐ寝むったが、起きると下は既に中国人で占領されていた。

<中国の列車について>
 列車の編成は一般的に寝台の”軟臥(一等)”と”硬臥(ニ等)”、座席の”軟座(一等)”と”硬座(ニ等)”がある。料金は、軟臥→硬臥→軟座→硬座の順に安くなるが、快適度も比例して悪くなる。座席は、始発のみ指定が取れるが、途中駅では”无座(席が無い)”という切符を買う事になる。寝台は全席指定、一等は4人のコンパートメント、2等は、3段・2列で1区画。中国人のほとんどが硬座で移動しており、彼らの硬座利用術は学ぶ事も多い。広い中国、硬座だけで旅をするのはけっこうたいへんなことだ。
                      
寝台も昼は一番下を座席として使うため、一番下の人は朝早くから起こされて、上の人が下に下りてきていた。列車内は生の中国人の世界になっていた。食べカスを無造作に床に落とす、弁当の空箱・空き瓶は窓から捨てる、タバコを強引に勧める、他の人からから聞いていた中国人の生活が僕の目の前に繰り広げられていた。大きなやかんを持ってお湯を配りに来るのも本当だった。
 初めての列車の旅はいろんな意味で驚きを感動の繰り返しだった。僕は一番上に寝ていたので、少し下に下りるのを止めて、ベットで日誌を書いていた。そうすると、隣のベットのおばちゃんが、僕の日誌を見ながら、話しかけてきた。(漢字が混じっていたので、興味があったらしい)まだ、中国語が話せなかった僕は筆談で少し話を続けたが、熱心に会話をしてくれた、「西安で教師をやっていて、今、里帰りから戻るところ・・」そう、話してくれた。
 僕ら3人はいい意味でお客さん待遇だった。色々と世話を焼いてくれたり、自分達の食べ物を分けてくれたり、沿線の説明をしてくれた。男の人はほとんどが煙草をを吸う、中国のマナーなのか、自分が吸うときには必ず人に薦める、それもほとんど強引に・・・僕は香港で買ったマルボロをまだ持っていたので、お返しに薦めたら「こんな不味い煙草は吸わないほうがいい、こっちをやる」と言い、僕のマルボロを窓から捨てられた事があった。(幸い残りが少なかったので、ダメージは少なかったが)
 そんな事を除けば、優しい人たちだった。広州で、聞かされた中国人のイメージが180度違うものになっていた。やはり、人のイメージなんて、千差万別、人それぞれなんだ・・と改めて感じた。ほとんどの人が西安まで一緒だったので、楽しく旅を続けられた。色々な話をしてくれたが、すべて中国語のためほとんどが理解出来なかったが・・・・勉強しなくちゃ、そう感じて、妹達に簡単な中国語から教えてもらいながら列車の旅は続いた。
  列車は大きな川に差し掛かる。地図で事前に確認するくらい見たいと思っていた”長江(揚子江)”だった。この大河に橋は3つのみ、その一つ武漢大橋を今渡っていると思うと鳥肌が立つくらい感動した。長江は橋の下を悠々と流れていた。西安に着く日、定刻になっても着く気配がない。一緒にいた中国人に聞いたら「遅れるんだろう」の返事、万事が一事こうである。定刻は目安であって遅れるのは当たり前、それくらいの感覚、ここもアジアなんだと思った。西安には、4時間くらい遅れて到着、「今日は早かった」と聞いた時にラッキーと思えた、自分の感覚がアジア的になっていたのに気づいた。
着いた西安(シーアン)は、雨だった。まず、街の地図を買い、今夜の宿を物色する。

<地図について>
 中国の大抵の街には地図が売られている。この地図が結構優れもので、バスの路線図から主要な建物、観光地、周辺区域まで網羅されている。ガイドブックが無くても、町々で地図を買えば観光できてしまう。価格も5毛〜1元くらいと安い。旅行者には必需品の一品の一冊。各地で違う作り方をして、特色を出している、鳥瞰図などの地図まで出ていた。

 地球の歩き方や地図を頼りに、街中を何軒か廻るが「没有」の返事ばかり。やっと辿り着いたのは、勝利賓館。ドミトリーで10元、有無を言わさず手を打つ。疲れたの一言。少し落ち着いた頃には、雨もあがり、うっすら陽も差してきた。新しい街に着いたら、まず地図を眺めて近い処から歩き廻るようにしている。街の雰囲気や食い物屋の場所、バス停などをチェックするのだ。もともと、歩くのは嫌いなほうじゃないし、暇にまかせて歩いている事がある。
 着いた晩は、近くの食堂で小龍包みたいなものと麺を食べた、久しぶりにまともな食事にありついた僕らはビールを飲みながらお腹一杯まで食べ続けた。散歩がてら西安の町を歩き、夜市を見つけた。美味しそうだが、もうお腹一杯で食べられそうに無かった。目だけは食べたそうにしていたんだが・・・。
 観光も歩いていくことが多かった。1時間以上も歩いて行ってしまった玄奘三蔵が経典を収めた「大雁塔」は、遠かった。ふらふら景色を見ながら歩いていったのだが、行けども行けども着かず、着いた頃は疲れていて、観光もせずにお昼ご飯にしたくらい。ここの観光は、外国人料金を要求された。普通に考えれば僕ら外国人なのだから不満を言ってはいけない。しかし、同じ入場券を買うのに、片や1元、片や2毛じゃちょっと腹がたつ。何回かチャレンジするが、駄目!しかたなく外国人料金を払い券を買う。何故か、中国人に負けた気分・・・。
 宿の近くには、小雁塔があり、静かな佇まいで僕はこっちの方が好きだった。博物館の碑林は有名な石碑があり、学の無い僕でも充分楽しめた、でも・・・中国人の管理の仕方が余りにも雑で、こっちが心配しちゃうくらいだった。ここの売店でコカコーラを久しぶりに見た(街の店には、ほとんどコカコーラは置いてなくて「幸福コーラ」などという中国製が売られていた)
 人民元が無くなってきたので、闇チェンも試みた。180の声に200元換えたのだが、相変わらず抜こうとするので、札束を返さずに足らない分だけ後から貰った。
 ここ西安の郊外には有名な兵馬庸と秦の始皇帝のお墓がある。郊外行きのバスターミナルから兵馬庸までローカルの旅をする。多分、探せばツアーみたいなものがあるんだろうが、時間に縛られたくなかったので、自分達で行く事にした。バスの着いた先は、大きなドームが目に映った。その中に、兵馬庸は眠っていた、中は見学の通路が作られており、そこから見るのだが、すぐそこに手に取るように見る事が出来た。でも、僕は次第にその土で作られた兵士達が可哀想に思えて仕方がなかった。皇帝の殉職者の代わりに作って埋めたと聞かされたが、膨大な数の兵士達に魂は入れられたのだろうか?機械的に作られた兵士達の表情は何処か淋しげに見えた。そして掘り起こされ、半分土から出ている姿をさらしている。埋められたなら、埋められたままのほうが良かったかもしれない、発掘されたばかりに、その表情を見られてしまった。そんな事を思い出したら、悲しくなって兵馬庸を一人先に出た。
 その後、秦の始皇帝陵を見に行ったが、思ったほど大きくなく、円墳の小高い丘だった。作られた当時はもっと広大な土地を使っていたのだろうが、今はこじんまりとしていた。
 そんな事をしていると、妹の一人が熱を出した。何日かの逗留を余儀なくされたが、西安の町を散歩しながら、過ごしていた。
 西安の町は、大きな街だが、風情があって好きな処だ。城壁の傍らで屋台が軒を連ねる。ここでは、イスラムの料理も所々に見ることが出来た。これから何処へ行こうか?妹達は大同に行くと言う。僕も大同まで一緒に行って内モンゴルに行こうと計画した。しかし、ここから出る切符を買うのに一苦労、予約がなかなか取れず、更に硬臥(二等寝台)がどれも取れないと言われた。病み上がりの体には辛すぎるかもしれない。色々と考えられる列車を総て当ってみたが、硬座の席を取るのが精一杯だった。
 妹は熱も下がり、回復していった。少し散歩に連れ出し、気分転換をさせながら体力を戻していった、中国の旅は体力勝負の処が多分にある。今度の移動も丸1日かかる(中国の旅からすると1日で移動できるのは近い部類、ほとんどがそれ以上掛かることが多い)、体力無くして大同には辿り着けないかもしれない。

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